草創期
渋川の祭典は、安永年間(1772-81)に始まったとされており、およそ250年の歴史を持つ(2020年現在)。寛文3年(1663年)に、市神・八坂神社の牛頭天王を奉じた御旅所が市内中之町に設けられ、神輿渡御が行われたという記録も残っているため、その起源はさらに遡るとも言われている。
開始当初は、木戸上3町(元宿(元町)・裏宿・川原町)が八幡宮の祭礼、木戸下3町(上之町・中之町・下之町)が市神八坂の祭礼をそれぞれ行っていたが、町の発展に伴い、他の諸町も「ねりもの」(舞台屋台や飾屋台)による祭礼を催すようになり、その規模を広げていった。
そして天保期(1838-45)になると、八幡の祭礼・八坂の祭礼に、お互い「ねりもの」を持って参加するようになり、渋川村全体の祭へと発展した。
「鬼五郎の涙雨」の由来と言われる鬼五郎事件は、文化9年(1812)の出来事であった。(鬼五郎の涙雨とは)
(注)「木戸上3町」「木戸下3町」とは、通行改め・害獣除けのために川原町と上之町の境に設けられていた木戸に由来する。坂の上に位置する西側の3町を木戸上、東側の3町を木戸下と呼んだ。
明治・大正期
明治7年(1874)、それまで行われていた6月17日の祇園祭、8月15日の八幡祭が統一され、9月1日八幡宮祭礼、2日八坂神社祭礼となり、明治29年(1898)まではその通り実施されている。明治30・31年は9月21・22日、明治32年~大正4年までは9月15・16日になっているが、これは養蚕が盛んになり秋蚕の最盛期を避けた処置であった 。
明治期の山車は『一本柱万灯型(波万灯屋台)』であり、領主の居城に繰り込む必要の無い渋川の屋台は巨大化し、9~10mの高さで豪華さを競ったが、明治43年(1910)、県内で2番目に渋川~伊香保鉄道の電線が引かれ、通りの中央に電車が走るようになって大きな山車は運行出来なくなる。
架線対策として山車の高さを抑える必要があり、各町は大正2年~8年にかけて二重鉾台式江戸型の山車を各所から購入する。19町の山車の多くが明治・大正期に製造・購入されたものである。
(渋川山車祭り年表(PDF)、19町山車紹介を参照)
(参考写真)神奈川県秦野の波万灯屋台
昭和期
昭和初期は、昭和恐慌の影響や、戦時体制で祭典が制限されるなどの理由で、期間をおいて開催された。
終戦後の昭和21年(1946)、『渋川町復興祭』として再開、『渋川祇園』として隔年実施で昭和34年(1959)まで続いたが、自動車の増加に伴う交通事情の悪化により中断。
昭和41年(1966)に国道17号中村~阿久津間が開通。また、渋川駅前~伊香保道の開通に伴い、市内の交通規制が可能となり、昭和44年(1969)から『渋川まつり』として再開。昭和44・45・46・47年は毎年開催だったが、昭和48年(1973)オイルショック以降は隔年実施が決議され現在に至る。
(なお八幡のぼりと神輿渡御は、昭和34年を最後に平成中期まで中断している。)
平成期
平成10年、八幡のぼりを復活させようとの機運が高まり、木戸上を中心とした7町により八幡のぼりが実施された。以降、参加町が増えてゆき、平成後期には全町が八幡に集結するようになった。また平成22年には、昭和34年を最後に途絶えていた八坂神社神輿渡御が復活した。
市内巡行は、四つ角と新町を中心に行われてきたが、平成中期になると、都市計画による四つ角の拡張や新町三差路が五差路に拡大するなど、町の形状は大きく変化した。それに合わせ、集結方法や巡行ルートも変化と試行錯誤を繰り返している。
第1日目に八幡のぼり、第2日目に市内巡行という形式は慣例として行われてきたが、明治7年の原点に立ち返るという観点から、平成30年度に第1日目を八幡祭礼、第2日目を八坂祭礼とすると祭典実行委員会において方針が決定された。